This is radio transistor2

This is radio transistor2

2011年1月18日火曜日

聖なるゴースト

いつもジャックが着ていたようなジャケットのポケットの中に、鉛筆と歯ブラシが入っていたのを見つけたイーディは、「もしかしたら、彼はケルアックのゴーストかもしれない」と思い込んでしまったようです。
ジャック・ケルアックといえば、いつもジャケットのポケットに鉛筆と歯ブラシを入れていたことでも有名ですよね。ケルアックの名前は知っていても、まだケルアックの本を読んだ事のなかったティモシーは、そんなこと、まったく知らなかったそうです。
この不思議な共通点が、イーディとティモシーの友情(親子みたいな)を生んだのです。


(P.S.)
これは、トランジスターがティモシーから聞いた本当の話です。
ティモシーの風貌はケルアックに、ちょっと似ています。その証拠に、ティモシーがケルアックの娘(ケルアックの2番目の妻、ジョアンとの子ども)のジャンと初めて会った時、「もしかしたらあなた、私のお兄さん?」と聞かれたそうです。
『ジャック・ケルアックと過ごした日々』の中で、イーディがジャックとの子どもを堕胎しなければならなかった辛い事実が書かれています。男の子だったそうなので、もしかしたらティモシーはその子の生まれ変わり、もしくはその子の魂が宿っていたのかもしれません。
少なくともイーディはそう信じていたのだと思います。


2011年1月16日日曜日

鉛筆と歯ブラシ


ビートの出会いを作ったのに、今までは影の存在でしかなかったイーディのことを伝えるためには、『ジャック・ケルアックと過ごした日々』の原書“You'll Be Okay”が出版される必要がありました。
それはイーディの念願で、ティモシーにとってはイーディが亡くなる前に託した大事な約束でもありました。
そこで今度は、ティモシーとイーディの出会いについて書きます。

住む家を失い車で生活をしていたティモシーが、共通の友人を通してイーディを紹介されました。「もしかしたら、少しの間、君を居候させてくれるかもしれないよ」と。
イーディを訪ねたティモシーは、奥のキッチンで芽キャベツのサラダと「アスパラガスみたいな」とイーディが呼んでいたスープをごちそうになりました。
ティモシーは今まで生きていて、イーディのようにすぐに打ちとけて、まったく批判をしない人に会ったなかったそうです。
気がついたら3時間もおしゃべりが続いて、「ここでよかったらどうぞ」という感じで、ティモシーの居候が決まりました。

一見、ただの親切心がなしたことかと思いきや、イーディにはある予感がありました。それはティモシーのジャケットのポケットに入っていた鉛筆と歯ブラシが、大きな引き金になったのです。

2011年1月9日日曜日

なぜニューヨークがビートを産んだのか?


ニューヨークがビートの生誕地で、その出会いを作ったのがイーディでしたね。
もしもイーディとジャックが一目で恋に落ちなかったら、ビート作家たちの出会いは
どうなっていたのでしょうか?
二人が出会った場所は、とあるデリ。一目でジャックに 心奪われてしまったイーディは、我を忘れてホットドッグを5本!!! も食べてしまったそうです。
その食べっぷりをみたジャックは、イーディに恋してしまったのです。
次の日、イーディはジャックからとても美しい(まるでシェークスピアが書いたような)
ラブレターをもらったのでした。
もしもニューヨークにホットドックがなかったら、ビートも産まれなかったという
ことでしょうか?
イーディにとってホットドッグは、忘れられない思い出の食べ物。
このニューヨークを象徴するストリート・フードこそ、ビートの産みの親だったんです。
 Good Morning cool dog!
イーディはそんなことを思い出しながら、毎朝ティモシーさんに挨拶していたのかも?

こんなかわいい事実、ビートに関する書籍のどこにも書かれていなかったと思います。
詳しくは、『ジャック・ケルアックと過ごした日々』 の第5章に。

2011年1月2日日曜日

Good Morning Cool Dog


 ティモシーさんがニューヨークの戻った頃、メールをする用事があったそうです。
ニューヨークといえば、非常にベタなんですがホットドッグが頭にふわっと
浮かんだようで。(トランジスターは、胃が脳ですからね)
そこで何となく・・・

 Good Morining Cool Dog!

と文頭に書いてみたそうです。
そしたらティモシーさんから非常に驚いた様子が液晶画面から飛び出すぐらいの
緊迫したメールがやって来ました。
 Good Morining Cool Dog! って、いつもイーディが僕にしてた挨拶なんだ。
イーディが生き返ったのかと思って、びっくりしたんだと。

その頃は、イーディの本をトランジスターが日本で出版するなんて200%、
いえ500%も考えてもいなかったそうだけど、実はもうイーディは
トランジスターの中に、ひっそりと忍び込んでいたのかも?

2011年1月1日土曜日

パンとアレンと死にたいほどの#3

そして晩秋。

ジャック・ケルアックの著書『オン・ザ・ロード』で強烈なインパクトを与えたディーンのモデル、ニール・キャ サディを描いた映画『死にたいほどの夜』が公開されました。冬には、アメリカン・ブックジャムから“The Slicee of U.S.A.”という別冊を出すことになり、そこための広告営業のために、トランジスターは『死にたいほどの夜』の映画の宣伝会社にコンタクトを取る事になりました。そこで YBOKの原書の編集者で版権者でもあるティモシー・モランさんに出会ったのです。

パンとアレンと死にたいほどの#2

そしてこの年の春も深まり始めた4月。

ビートのボム、アレン・ギンズバーグが亡くなりました。6月に六本木のバーでギンズバーグを忍ぶ会が開かれ、 そこでトランジスターは、YBOKのもう一人の翻訳者、詩人のヤリタミサコさんと出会いました。会ったとたん目と目がスパークする出会い、その場で意気投合したそうです。これがビートなる出会いというのかもしれませ んね。
このときのことは、ヤリタミサコさんが著書『詩を呼吸するー現代詩・フルクサス・アヴァンギャルド』(水声社発行)やYBOKのあとがきにも書いてい ただいています。

パンとアレンと死にたいほどの#1

最初の出会いは97年の早春。

当時の私は雑誌『アメリカン・ブックジャム』 の東京オフィスで副編集長をしていました。そこへYBOKの翻訳者のひとり、前田美紀さんが 創刊号を編集部に直接買いに来てくれたのです。
そのとき前田さんがたまたま持っていたパンを私があまりにもひもじそうだったので、(胃で物事を考えるタイプであることを察知したようです)置いて行ってくれました。
なんていい人なんだろう! このパンが前田さんと私の深い絆を作ってくれたのです。
後に前田さんは東京編集部のスタッフとして巻き込まれ、東京編集部の2輪のひとつになって、よろよろと自転車操業を始めて行くのでした。