This is radio transistor2

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2011年5月14日土曜日

封印された事実が明かされるとき


『ジャック・ケルアックと過ごした日々』の中で、今まで真実がはっきり
していなかったルシアン・カーをめぐる事件の全貌が明らかに!
ビート研究家の歴史が変わりました。
その事件が起こったのは、この公園です。

2011年4月6日水曜日





              リバーサイド・パークの入り口近くのベンチ
              二人のアパートからは、目と鼻の先。

二人の会話は、私たちがもっと若かった頃のこと-ジャックがなりたかったもの(作家)、私がしたかったこと(彼と一緒にいること)-や、二人の友達、彼らの恋愛模様、そして私たちの夢へと移っていった。私たちには話すことがたくさんあった。私が心理学の講義を取っていたことから、ある点で、私たちは互いを分析し始めたりした。
(『ジャック・ケルアックと過ごした日々』 より抜粋)

2011年4月3日日曜日

どんな素敵な朝ご飯だったのでしょうか?

ワイルドなヒスパニック系エリアのすぐ隣
アイリッシュたちの集合住宅からも近い
アムステルダム・アベニューの遊び場からもそう遠くなく
ホテルや映画館が並ぶユダヤ系のアッパーブロードウェイもすぐそこ
オシャレなセントラルパーク・ウエストのマンション群も目と鼻の先
(ジャック・ケルアック、『The Town and  The City』)

後にケルアックは、このアパートでの日々が最も幸せだった時だと語っています。
彼の隣にいたのは、もちろんイーディです。
さて、どんな素敵な朝ご飯だったのでしょう。
『ジャック・ケルアックと過ごした日々』 第8章で体感してみて下さい。








二人のアパートの外観写真と、入り口辺りのかわいいお花。
二人が住んでいた1940年代の風情とは大分違うと思いますが。

2011年4月2日土曜日

二人のアパート


 ジャックとイーディが二人で一緒に暮らした最初の夜は、1942年の大晦日。
二人は新しいアパートで友人たちに新年の朝食をごちそうしたくて、近所のデリで食料を買い込みました。
ベーコン、玉子、バター、ミルク、コーヒーetc. etc.

2011年3月5日土曜日

野性の種の芽生え

コロンビア大学の野性の種子は、20世紀を一変させてしまうのです。現在、「カウンター・カルチャー」と呼ばれるもののルーツを探ると、だいたいビートに辿りつきます。彼らは当時1950年代のアメリカ社会で権威とよばれる人や、物事に「NO!」を突きつけた人たちだったからです。
決してアカデミックな世界からの上から目線ではなく。

2011年2月16日水曜日

1940年代。 ここに野性の種子が蒔かれた

コロンビア大学。ビート・ジェネレーションがこの世界に初めて姿を表した場所。
彼らはきれいに整備された庭園に、突如舞い降りた野性の種子のようだった。
『ビート・ジェネレーション/ジャック・ケルアックと旅するニューヨーク』 
(ビル・モーガン著、今井栄一訳 ブルース・インターアクションズ刊)には、そう書かれています。
ではビート・ジェネレーションとは、どんな人たちだったのでしょうか? 

         ロウ・ライブラリー。若きビートの面々は、正面の噴水広場や
          石畳の辺りで写真を撮っています。
          『ジャック・ケルアックと過ごした日々』のカバーフォトの
          ケルアックの写真も噴水辺りで撮られたものの一部を使用。
          本来は向かって右に、イーディではなくルシアン・カーが!
          カバー写真に関してのエピソードは後日書きますね。

2011年2月12日土曜日

思いのプロムナード

正門をくぐって、100メートル弱、こんな感じの小粋な道が続きます。
イーディとケルアックも、ニューヨークでこれから展開する自分の将来に向けて
胸をときめかして歩いていたのだろうなと、過去の二人の思いが伝播してきます。
そんなとき、「人は死んでも、その思いというのは永遠に生き続ける」ことを
実感します。イーディの本を読んでくれた読者の方々の心には、きっと二人の
スピリッツが静かに燃え続けているのではないでしょうか。


             永遠に考え続けている人は、コロンビアのキャンパスにも。
             トランジスターが一番心に残った風景だそうです。
             今更言うまでもなく、ロダンの作品は不滅ですね。

2011年2月5日土曜日

筋肉バカって!

『ビートニク』というドキュメンタリー映画の冒頭で、コロンビア大学のビートツアーの様子が出て来ます。ガイドが「ジャック・ケルアックはフットボールの奨学金で入学した筋肉バカだった」みたいなことを言っていて、こんな風に言われちゃうんだなあ、乱暴な言い方だなあと、苦笑してしまいました。(この映画で、ジョニー・ディップがケルアックになりきった感じで作品を朗読している様子が挿入されていました)
確かにケルアックには、俗に言う筋肉バカ的な一面もあるのかもしれません。
イーディがケルアックの故郷、ローウェルに遊びに行ったとき、ケルアックには体育会系の友人と文化系の友人の2種類がいることを知るのです。
また、体育会系と文化系の友人が、ケルアック抜きで交流することはなく、どちらかというとお互いに牽制しあっていたことも・・・。
ケルアックはそのどちらのグループからもアイドル的存在で、肉体派のインテリとでもいうのでしょうか!
『ジャック・ケルアックと過ごした日々』の10~11章に、その辺りの事情が詳しく描かれています。
また若きケルアックは、自分を取り巻くこの2つのタイプの友人たちの状況をモデルにした短編を手がけました。



        正門をくぐると、すぐの左側に、コロンピア大学のキャンパスマップが。
        コロンビア大学のキャンパスには、このようなマップが所々に配置されているようです。 
         由緒ありそうな建物が一杯! もちろんケルアックが通っていた時代には無かった建物
        もありそうですが。

2011年1月31日月曜日

女神がささやく最初の1ページは?

トランジスターが初めてコロンビア大学の正門に着いたとき、向かって右側にあった胸に抱いた本のページを開いている女神像に心を奪われたそうです。
イーディ、そしてジャックがこの女神を初めて見た時、何か感じるものがあったのでしょうか? フットボールの奨学金でコロンビア大学に入学したジャックは、自分が世界的に著名な作家として後世に名を残すことになるとは思ってもみなかったかもしれませんが、この像は、ジャックの作家としての最初の1ページが開いたということの暗示・・・ということにしておきましょう。

二人にまつわるニューヨークの旅は、この正門を抜けてコロンビア大学のキャンパスの中に、ゆっくり入って行きましょう。 

 トランジスターは女神像だと思ったようですが、男性かもしれませんね。 
 この像に関する情報は、今の所、見当たりません。あまり注目されていないみたいです。

2011年1月27日木曜日

トランジスターの本が買える場所

                

 このブログを読んでいただいた方が、『ジャック・ケルアックと過ごした日々』のページを開いてみたいと思ったときに、どこで買えるのかが、わからなかったら困りますよね。特に、超弱小出版社の本なのですから、出会える場所が限られてしまいます。
でも大丈夫、トランジスターの本は、全国どこの書店でも注文が可能ですし、ISBNナンバー(978-4-902951-03-5 )でネット検索していただくと、ウエブ書店のページに行く事ができます。

お近くの書店で直接ご注文いただく場合には、以下の情報を書店の方にお知らせいただけたら、注文がスムーズになります。

1. 地方小出版流通センター扱いの本
2. ISBNナンバー 978-4-902951-03-5

新宿2丁目のカフェ・ラバンデリアは、トランジスター・プレスの活動拠点です。
http://cafelavanderia.blogspot.com/
ここでの直接購入も可能です。

また新宿近辺にいらした方は、

インフォショップ、イレギュラー・リズム・アサイラム
 http://irregular.sanpal.co.jp/ 

模索舍
http://www.mosakusha.com/voice_of_the_staff/の棚には、確実に並んでいます。


『ジャック・ケルアックと過ごした日々/そのままでいいよ。。』
イーディ・ケルアック=パーカー著
ティモシー・モラン/ビル・モーガン編
前田美紀/ヤリタミサコ訳 
400ページ
定価(本体2400円+税)
Printed in Japan









職探しの場所

ニューヨークで芸術の道に進むという夢を実現させたイーディ。ニューヨークで暮らし、その夢を持続させるためにまずはお金を得なくてはなりませんよね。そこで働き場所を探す事にしました。求人広告が出ている『ニューヨークヘラルド』、『ニューヨークタイムズ』、『ニューヨークジャーナル』などの新聞を買うために116丁目とブロードウェイの角にあるドラッグストアに入りました。イーディの職探しはこのドラッグストアから始まったのです。
もしもイーディが自分の夢を実現させなかったら、ジャックと出会うこともなかったのですよね。最初に夢があってのビートでした。
イーディの職探しは、『ジャック・ケルアックと過ごした日々』第3章をご参照下さい。


116丁目とブロードウェイの交差点には、地下鉄ライン1の116 Street/ Columbia University Station駅があります。そうなんですよ! この場所には、コロンビア大学の正門もあるのです。当時ジャックはコロンビア大学の学生だったので、もうすでに接近遭遇。もしかしたら、そのときデリに煙草を買いに立ち寄った彼がいたかもしれませんね 。
トランジスターがこの交差点に行ったときには、デリの姿は見えなかったようですが、工事中のビルがあったので、もしかしたらそのビルの一階にデリがあったのかもしれません。
ここには、通常の郵便ポストがありました。ニューヨークのポストはブルー、確かパリは黄色だったけど、今は違う色になったようなことを聞いたような?

2011年1月19日水曜日

イーディ&ケルアックにまつわる場所

トランジスターは、『ジャック・ケルアックと過ごした日々』の出版前に、ニューヨークへ旅して、イーディ&ケルアックにまつわる場所をデジカメで撮影して来たようです。その何点かは、本書の中で使われています。
現在は、無謀にも本のプロモーション映像のようなものを作ってみようと、素人のクセにがんばっているみたいですよ。実現するといいのだけど、先は遠そう! そこでまずは現在の風景写真を、トランジスターからのコメント付きで何点か紹介していきます。
ビート文学をはじめアメリカ文学の研究家で、アレン・ギンズバーグのアーカイブに携わっていたビル・モーガンが、“The Beat Generation in New York”という本で、それぞれの場所にまつわる貴重なエピソードを書いています。ビル・モーガンは、ティモシーの親友でもあるので、イーディとケルアックに関する記述は信頼できますし、涙ものの貴重な情報も多いです。 この本はすでに翻訳本が出ていますよ。(『ビートジェネレーション/ジャック・ケルアックと旅するニューヨーク』今井栄一訳、ブルース・インターアクションズ刊)
今年の1月3日にwowowでビートをリスペクトしたスペシャルドラマ『コヨーテ海へ』 が放映されました。このドラマの堤幸彦監督は、この翻訳版を片手にニューヨークを取材したそうです。イーディの本が出版されていたら、もっと有意義な取材が出来たのでは? なんて勝手に思ったりしているのですが。



ケルアックが『オン・ザ・ロード』 を書き上げたアパート近くの路上にあった郵便ポスト。誰かが勝手にかわいい装飾をしたのか? この帽子は誰のだ?
このポストに手紙を入れたら、韓国映画『イルマーレ』(アメリカ映画にもなりましたね)みたいに二人が生きた1940年代のニューヨークに届いたらいいのに。

2011年1月18日火曜日

聖なるゴースト

いつもジャックが着ていたようなジャケットのポケットの中に、鉛筆と歯ブラシが入っていたのを見つけたイーディは、「もしかしたら、彼はケルアックのゴーストかもしれない」と思い込んでしまったようです。
ジャック・ケルアックといえば、いつもジャケットのポケットに鉛筆と歯ブラシを入れていたことでも有名ですよね。ケルアックの名前は知っていても、まだケルアックの本を読んだ事のなかったティモシーは、そんなこと、まったく知らなかったそうです。
この不思議な共通点が、イーディとティモシーの友情(親子みたいな)を生んだのです。


(P.S.)
これは、トランジスターがティモシーから聞いた本当の話です。
ティモシーの風貌はケルアックに、ちょっと似ています。その証拠に、ティモシーがケルアックの娘(ケルアックの2番目の妻、ジョアンとの子ども)のジャンと初めて会った時、「もしかしたらあなた、私のお兄さん?」と聞かれたそうです。
『ジャック・ケルアックと過ごした日々』の中で、イーディがジャックとの子どもを堕胎しなければならなかった辛い事実が書かれています。男の子だったそうなので、もしかしたらティモシーはその子の生まれ変わり、もしくはその子の魂が宿っていたのかもしれません。
少なくともイーディはそう信じていたのだと思います。


2011年1月16日日曜日

鉛筆と歯ブラシ


ビートの出会いを作ったのに、今までは影の存在でしかなかったイーディのことを伝えるためには、『ジャック・ケルアックと過ごした日々』の原書“You'll Be Okay”が出版される必要がありました。
それはイーディの念願で、ティモシーにとってはイーディが亡くなる前に託した大事な約束でもありました。
そこで今度は、ティモシーとイーディの出会いについて書きます。

住む家を失い車で生活をしていたティモシーが、共通の友人を通してイーディを紹介されました。「もしかしたら、少しの間、君を居候させてくれるかもしれないよ」と。
イーディを訪ねたティモシーは、奥のキッチンで芽キャベツのサラダと「アスパラガスみたいな」とイーディが呼んでいたスープをごちそうになりました。
ティモシーは今まで生きていて、イーディのようにすぐに打ちとけて、まったく批判をしない人に会ったなかったそうです。
気がついたら3時間もおしゃべりが続いて、「ここでよかったらどうぞ」という感じで、ティモシーの居候が決まりました。

一見、ただの親切心がなしたことかと思いきや、イーディにはある予感がありました。それはティモシーのジャケットのポケットに入っていた鉛筆と歯ブラシが、大きな引き金になったのです。

2011年1月9日日曜日

なぜニューヨークがビートを産んだのか?


ニューヨークがビートの生誕地で、その出会いを作ったのがイーディでしたね。
もしもイーディとジャックが一目で恋に落ちなかったら、ビート作家たちの出会いは
どうなっていたのでしょうか?
二人が出会った場所は、とあるデリ。一目でジャックに 心奪われてしまったイーディは、我を忘れてホットドッグを5本!!! も食べてしまったそうです。
その食べっぷりをみたジャックは、イーディに恋してしまったのです。
次の日、イーディはジャックからとても美しい(まるでシェークスピアが書いたような)
ラブレターをもらったのでした。
もしもニューヨークにホットドックがなかったら、ビートも産まれなかったという
ことでしょうか?
イーディにとってホットドッグは、忘れられない思い出の食べ物。
このニューヨークを象徴するストリート・フードこそ、ビートの産みの親だったんです。
 Good Morning cool dog!
イーディはそんなことを思い出しながら、毎朝ティモシーさんに挨拶していたのかも?

こんなかわいい事実、ビートに関する書籍のどこにも書かれていなかったと思います。
詳しくは、『ジャック・ケルアックと過ごした日々』 の第5章に。

2011年1月2日日曜日

Good Morning Cool Dog


 ティモシーさんがニューヨークの戻った頃、メールをする用事があったそうです。
ニューヨークといえば、非常にベタなんですがホットドッグが頭にふわっと
浮かんだようで。(トランジスターは、胃が脳ですからね)
そこで何となく・・・

 Good Morining Cool Dog!

と文頭に書いてみたそうです。
そしたらティモシーさんから非常に驚いた様子が液晶画面から飛び出すぐらいの
緊迫したメールがやって来ました。
 Good Morining Cool Dog! って、いつもイーディが僕にしてた挨拶なんだ。
イーディが生き返ったのかと思って、びっくりしたんだと。

その頃は、イーディの本をトランジスターが日本で出版するなんて200%、
いえ500%も考えてもいなかったそうだけど、実はもうイーディは
トランジスターの中に、ひっそりと忍び込んでいたのかも?

2011年1月1日土曜日

パンとアレンと死にたいほどの#3

そして晩秋。

ジャック・ケルアックの著書『オン・ザ・ロード』で強烈なインパクトを与えたディーンのモデル、ニール・キャ サディを描いた映画『死にたいほどの夜』が公開されました。冬には、アメリカン・ブックジャムから“The Slicee of U.S.A.”という別冊を出すことになり、そこための広告営業のために、トランジスターは『死にたいほどの夜』の映画の宣伝会社にコンタクトを取る事になりました。そこで YBOKの原書の編集者で版権者でもあるティモシー・モランさんに出会ったのです。

パンとアレンと死にたいほどの#2

そしてこの年の春も深まり始めた4月。

ビートのボム、アレン・ギンズバーグが亡くなりました。6月に六本木のバーでギンズバーグを忍ぶ会が開かれ、 そこでトランジスターは、YBOKのもう一人の翻訳者、詩人のヤリタミサコさんと出会いました。会ったとたん目と目がスパークする出会い、その場で意気投合したそうです。これがビートなる出会いというのかもしれませ んね。
このときのことは、ヤリタミサコさんが著書『詩を呼吸するー現代詩・フルクサス・アヴァンギャルド』(水声社発行)やYBOKのあとがきにも書いてい ただいています。

パンとアレンと死にたいほどの#1

最初の出会いは97年の早春。

当時の私は雑誌『アメリカン・ブックジャム』 の東京オフィスで副編集長をしていました。そこへYBOKの翻訳者のひとり、前田美紀さんが 創刊号を編集部に直接買いに来てくれたのです。
そのとき前田さんがたまたま持っていたパンを私があまりにもひもじそうだったので、(胃で物事を考えるタイプであることを察知したようです)置いて行ってくれました。
なんていい人なんだろう! このパンが前田さんと私の深い絆を作ってくれたのです。
後に前田さんは東京編集部のスタッフとして巻き込まれ、東京編集部の2輪のひとつになって、よろよろと自転車操業を始めて行くのでした。